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Candy Stripper デザイナー板橋よしえの「おしえてすきなひと」 第6回 AMO

板橋よしえのおしえて好きなひと 板橋よしえ AMO

「生まれた場所でも育った場所でもない原宿が
自分の居場所のように感じたんです」(AMO)

——よしえさんには前々回(Vol.4参照)にお伺いしたんですが、まず、最初にAMOさんが洋服を好きになったきっかけからお伺いできますか。
AMO 小学校の時に読んでた「なかよし」の漫画の中の登場人物が着てる洋服を見て、可愛いなと思って。それを見ながら、自分でも「こんな服があったらいいな」と思いつつ、自由帳に落書きしてたんですね。その頃から、洋服を見るのも、着るのも、考えるのも好きだったんですけど、親がファッションにはあまり無頓着な人で。お兄ちゃんのお下がりばかり着せられていて、あまり自分が着たいと思った洋服を買ってもらえなかったんですね。それで、小学校高学年になると、周りのみんなが小・中学生向けのファッション雑誌を買い始めて。『ピチレモン』とか。
板橋 私も読んでた(笑)。
AMO かわいい洋服がいっぱい載ってて。自分のお小遣いじゃ買えないけど、見てるだけでもワクワクしてたから、満足はしてたんですけど、本当は着てみたかったんですよね。だから、ファッション雑誌に現実逃避するのが楽しくなっちゃってて(笑)。それから中学生になって、『Seventeen』からギャル雑誌まで、いろんな雑誌をひと通り読んでみて。最終的に辿り着いたのが、『CUTiE』『Zipper』『KERA』っていう、いわゆる原宿系って言われていた雑誌で。
板橋 それが何才くらい?
AMO 14歳くらいかな。一番自由で、すごくキラキラして見えたんですよね。千葉の片田舎だったので、ギャルっぽい子はいても、原宿系は一人もいなくて。でも、雑誌の中には確かにその世界はあって。原宿にはこういう子がいっぱいいるんだ、こういう自由なファッションが認められてるんだと思って。中学生だから校則もあって、髪も染めちゃいけなかったりして。いろんなルールに縛られている中で、羨ましくて羨ましくて。共通の趣味の友達も見つけられずにいたから、早くこの外に行きたい! 飛び出たい!って思ってて。いま思えば、地元や自分のまわりの環境にコンプレックスを感じていたんだと思います。それで、たまたま東京に行く機会があった時に、「サロンモデルしませんか?」って声をかけられて、ちょこちょこ都内に出るようになって。吉祥寺のサロンだったんですけど、サロンモデルをやった後に、原宿や渋谷に寄り道してから帰るようになって。原宿駅の竹下口を出て目の前に広がる竹下通りは本当にキラキラして見えてました。今はだいぶ景色が変わりましたが、当時の竹下通りはパンクもいれば、ロリータもいて、デコラもいて、古着屋もいっぱいあって、髪もいろんな色の人がいっぱいいて。すごい! すごい!って。
板橋 あはははは。可愛い!
AMO ふふふ。生まれた場所も育った場所もここじゃないのに、中3の私には自分の居場所のように感じたんですよね。そこからスイッチが入ったように、どんどんファッションが好きな気持ちが高まっていって。高校に入ってからは、ほとんどバイト代は古着屋さんで使うようになり。住んでるのは千葉だったけど、わざわざ原宿と高円寺に毎週のように行って。古着屋さんに通うようになってからは、その中のネットワークで友達もできていって。
板橋 「Spank!」だよね。私、AMOちゃんのことを初めて見たのは、原宿に貼ってあったポスターだったんだよね。『KERA』の表紙だったんだけど、あれ? 会ったことがあるなと思って。実はキャンディに出勤する道すがら、すごい可愛い子が私の目の前を歩いてて。あの子、可愛いなあ〜と思ってみてたら、「6%DOKIDOKI」に入っていって。
AMO あははははは。働いてましたね。
板橋 ポスターを見た時に、あの可愛い子だ!って思って。これ、今、初めて言うんだけど。
AMO 知らなかったです。そんな前から。
板橋 そう、見てたの。AMOちゃんのこと(笑)。
AMO (笑)高校生1年生までは普通科に通ったんですけど、その頃から週末に原宿にいると、雑誌にスナップをしてもらえるようになったんですよ。そこから、読者モデルとして出てみませんかって声をかけてもらうようになって。割と頻繁に撮影に呼んでもらえるようになってからは、学校生活も大事だけど、自分がやるべきことは、もしかしたらここにあるかもしれないって思うようになって。だから、高校2年生から通信科に変えて、お仕事として読モをやりつつ、当時よく遊びに行っていた「6%DOKIDOKI」でショップガールとして働かないかと声をかけてもらったので、原宿のお店でも働き始めて。
板橋 すごい決断力だね、それ。
AMO いまほどはSNSが発達してなかったから、共通の趣味の友達がなかなか見つけられない時代だったんですよね。でも、きっと、私と同じように、自分と似た趣味や世界観を求めている子が、全国のどこかに絶対にいるんじゃないかなって思ってて。自分が雑誌に出ることによって、どこかにいる誰かに届けばいいなっていう思いがあったんです。だから、これを仕事にしようと思ったんですよね。
板橋 初めて聞いた!
AMO 自分自身の世界を変えたいという思いもあったし、どこかにいる同じ気持ちの人と繋がれたらっていう気持ちが当時は強くありましたね。